「学び」を通して、世界を結ぶ

英語への道

WRITER
 
この記事を書いている人 - WRITER -
高校英語教師x世界をはんなり結ぶ京おんな“コニシスト”こと小西伸子です。 20代後半に行ったオーストラリア留学をきっかけに、世界平和を願いながら日々仕事をしている。 現在、県立高校の非常勤英語講師として40人のクラスを4コマx週5日教え、”スーパー非常勤講師”と呼ばれることも。

はじめに

いまでこそ、英語を仕事にして、プライベートでも英語を話さない日はありませんが

すんなり、英語教師の道へ進んだのではありません。

教師になるために大学に編入したのは30歳後半。
高校で教鞭をとり始めたのは40歳になってからです。

英語嫌いな学生時代

英語は大嫌いな科目でした。

父の仕事の関係で小学校で三回、中学校で三回

京都、大阪、金沢、名古屋と転校しました。

 

小学校の頃は問題なかったのですが

中学校で3回の転校は学習面でついていくのはかなり大変でした。

3年生になって転校した中学校は名古屋で有数のできる学校だったので

受験を前にすっかりやる気を失くしてしまいました。

 

大事なところを転校ですっぽり抜けてしまった部分があって英語は特に嫌いでした。

高校でも英語は嫌いで不得意教科。短大も英語を避けて国文科を選びました。

バブル時代のOL生活

大きな夢や野心があったわけではないので

安定していてお給料も悪くない会社を選びました。

面接に行くだけで交通費やお土産、ランチなどが振舞われた時代です。なんの疑問もなく

なんとなく証券会社に就職しました。

 

ごくごく普通のOLとして、たいした仕事をしていたわけでもないのですが、

バブル経済の恩恵を受け、2年目でボーナス100万をあっけなく超えてしまいました。

 

残業後は上司に料亭や高級クラブに連れていかれ、タクシーチケットをもらって帰る。

夏は海外旅行、冬はスキー三昧、イケイケOLを満喫していました。

英語を話せるようになりたい

早めの休暇を取ってハワイに行った21歳の夏

ディスコ(昭和ですよね)で友だちと踊っていると

育ちが良さそうで、素敵なドイツ人が声をかけてきました。

 

とても良い雰囲気だったのですが、片言の英語でなんとなく場をつなぐものの

自分の英語力ではちゃんとした会話をすることもできず

せっかくの出会いを棒に振ったような気がしました。

 

英語を話せたら、世界が広がるはず

「そうだ留学しよう」と思い立ちました。

そして、100万円のボーナスを捨てバブル期の日本を後にしました。

この記事を書いている人 - WRITER -
高校英語教師x世界をはんなり結ぶ京おんな“コニシスト”こと小西伸子です。 20代後半に行ったオーストラリア留学をきっかけに、世界平和を願いながら日々仕事をしている。 現在、県立高校の非常勤英語講師として40人のクラスを4コマx週5日教え、”スーパー非常勤講師”と呼ばれることも。

関連記事 - Related Posts -

関連記事はありませんでした

最新記事 - New Posts -

- Comments -

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

Copyright© 学musubi(まなむすび) , 2021 All Rights Reserved.